馬場 勉のコラム
『自今生涯』
混迷する政治の今こそ、犬養木堂の精神を蘇らせよ!
例年より、遅い梅雨入りになった。長期予報によると、今年の夏は、北が冷たく、南は暑い、そうだ。短期の天気予報は、よく当たるようになった。機材や技術の向上が著しいのと、気象予報士という資格者が専門的な知識により、緻密に予報に努めている面も見逃せない。ただ、長期予報になると、信頼性はもう一つであろう。
菅内閣になった途端に、世論調査では支持率が急上昇。ご祝儀相場ともいえるが、急に上った場合は、急下降する場合が往々にしてある。山高ければ谷深しであるから、単純に喜ぶばかりも出来まい。
要職についている政治家らは、頭が良くて口が達つ人が目立つ。野党だったときは、舌鋒激しく攻め寄っていたのが、攻守立場が変われば逃げの一手でかわす。何とも理解し難い人達の集団である。でまかせの言い訳がましい理屈で、逃げまわるよりは、堂々と立ち振る舞えば良いのにと思われる。その方が好印象を与える。国民を“下衆”な勘ぐり扱いする輩と看做すのは良くない。要は、臭いものには蓋をする流儀だといえる。
政界では、最近は若い方が良いとされる時代である。しかし、若いだけが能ではない。年の功というものもあるから、年配者も大切にすべきだろう。岡山市出身で昭和6年に誕生した犬養毅(木堂)内閣は、総理大臣になったのが76歳のときだった。翌年の昭和7年に、5.15事件で海軍の青年将校らの凶弾に倒れた。その時に発した「話せばわかる」という言葉は、民主主義の基本理念を示している。どうも最近の政治家諸侯は、他人の云うことを聞かず、自分の考えを滔々と主張し、選挙に当選することのみに汲々としている。お互いに、相手を受け入れて誠実に話し合って理解すべきであろう。
岡山市川入(かわいり)に犬養木堂先生の生家がある。国の重要文化財になっている。庄屋をつとめた家柄で、江戸中期の農家の遺構が残っている貴重な建物である。世間には、木堂先生の書も多く残っている。人に頼まれて盛んに書いていたようだ。春・夏・秋・冬に分けた冊子には、名言とか感動した言葉などを書き留めた、備忘録のような種本があり「犬養木堂記念館」に展示されている。当館は、随分整備されていて、岡山が生んだ偉大な政治家を、目の当たりにすることができる。明治8年20歳で上京した。明治13年に慶応義塾を中退している。明治初期の当時は、ちょうど福沢諭吉自身の影響が強い時代であったろうから、福沢諭吉が師と仰ぐ岡山市出身の緒方洪庵の“適塾”の影響が強いはずだ。さらに、緒方洪庵先生の学問の上流は、津山洋学に源を発する学問の流れに連なる。だから、一条の糸で結ばれていることになる。岡山の学問・政治の系譜が読み取れる。ぜひ足を運んでみることをお勧めします。