馬場 勉のコラム
『自今生涯』
新・資本論『21世紀の資本』
備前平野に、春を告げる裸祭りが 2 月 21 日(土)の夜、古式にしたがって実施された。俗に「西大寺会陽」といわれており、 1510 年に始まったとされ、 500 年余の伝統を誇る。岡山市西大寺の西大寺観音院で開催された。三寒四温を繰り返しながら、もうすぐ春になり、桜が咲く時候になります。もう少しの辛抱です。福木(しんぎ)は、若い青年の梶原グループが 1 対 2 本を独占した。珍しいことだ。
「資本論」といえば、カール・マルクスの古典的な経済論だが、最近、フランス人のトマス・ピケティーの新・資本論という著書が人気を博し、日本でも話題を呼んでいる。 700 ページを超える大作だから、分量を見ただけで読む気力がなえてしまうが、要点だけは雑誌、新聞等で紹介されている。
要するに、
r (資本収益率)> g(経済成長率)
ということ。すなわち、経済成長率より資本収益率の方が大きいから、労働による所得より株や不動産等の富の重みの方が、かつてなく高まっているということを膨大な資料分析を駆使して、説明しているということである。経済格差の広がりが、ますます増えて、富を持つ者は雪だるま式に富を増やし、相続して金持ちが、金持ちを産むことになる、俗にいう財閥の誕生だ。一方、貧乏な人は、負の連鎖で働けど働けど、お金は残らず毎日の生活に困るということである。親の貯えが無く、貧乏人であれば子供の教育もままならず、高等教育を受けることができず、貧困の連鎖になるということ。
例えば、頭が良くても東大にいくには、それなりの金の余裕がなくてはいけない。例えば、塾にも行けないからだ。もちろん例外はあるから、悲観することはないが…。東大に行く生徒の親の収入は一般庶民の収入より多く、親の収入に比例しているのが正常になっている。生まれ持った頭脳が、親のお金で人生が左右されるという不平等を生んでいる。
所得格差をどうすれば少なくできるか、という永遠の謎解きが問題なのである。国は国民から税金を取ることにより、公共の仕事などをするのだが、その基本的指導理念は、「富の再分配」なのである。金持ちには応分の税負担を課し、貧乏人に色々な手段で、補助の手を差し出してお金をばらまき救済するということであるが、この理想的な仕組みがうまく稼働していないのではないかということを「新・資本論」は問いかけているのだろう。相続税や諸税率を高くして、極端な金持ちを少なくし、その日暮らしの貧乏人を助ける。すなわち、生活保護の権利等を利用させて、富の平等化へと進めてきているのだが、昨今、どうもこの仕組みが上手くいっていないような雰囲気なのだ。頑張る者が報われる社会も大切であるが、不労所得者が多くはびこっているのも現実の問題である。これらの諸問題を各々の数値を採用して論じたのが「新・資本論」といわれるトマス・ピケティーの論調なのである。色々な見方により議論が巻き起るであろう。
何れにせよ、中間層が薄くなり、上層と下層が増え続けている。日本は医療制度では、平等が基本的に成功しているが、アメリカンドリームを標榜するアメリカでは、医療の平等化に反対が多く、オバマ大統領も頭痛の種であろう。ただ、大金持ちは社会等へ寄付をしているのも事実だが。
「天才と気狂いは紙一重」と言われるが、最近の数件の少年犯罪を見聞していると例外を除いて、天才と気狂いは何が違うのかと思うようになった。普通の頭脳で生活出来ればよいとしなければならないということか。数万人に一人の割で猛烈に働き、ブラック企業ではと思われる会社を作り上げ、一部上場企業にのしあがる企業を作っている人がいるが、努力する人が報われる社会も必要だが、私の考えでは、所詮、人生は運と努力で左右されるのであろうと思う。いろいろな要因が、絡み合ってミックスされていると考えるが、どうかな…。