馬場 勉のコラム
『自今生涯』
岡山の人物・自然・文化・風土の原風景
この章のコラムは、過日、内田百閒賞に出品した作品です。原稿46枚分ありますので、念のため申し添えておきます。気長に読んで下さい。
随筆というかコラムあるいは紀行文の類を五件書きました。
順番にあらすじを説明しますと以下の通りです。
一、中国三十三観音霊場めぐり(岡山県内)
中国地区の各県にある中国三十三観音霊場を紹介して、岡山県内の七ヶ寺と特別霊場一ヶ寺について詳細に書いた。特に、観音さまに対する信仰についての理解を深めるための一助となればと思う。
二、岡山市は、遠い所にある田舎都市か?
政令指定都市になった岡山市が依然としてさえない状況下にある、という認識にもとづき、東京等との比較考量について考えを述べた。
三、天下の秀才も“志"が必要
津山洋学資料館が、新館に移転されたのを機に、津山洋学の成り立ちから現在に至るまでの長い系譜を紐解き、岡山から多くの秀才が輩出されていること。彼らの真摯な生き様や“志"の必要性について時代考察をしながら、時代を超えて人間としての生き様を考えた。
四、先駆者「緒方洪庵先生」と「適塾」
岡山の人には余り知られていない、緒方洪庵先生を伝記風に書いた。津山洋学との繋がり、さらには福沢諭吉や大阪大学に連携する学問の源泉、かつ、深く長い底流などについて、考えを述べた。
五、岡山県内の島めぐり
日生諸島、笠岡諸島、犬島について、それらに属する島々の紹介や特色を書き述べた。また昨今、世間の注目の的になっている犬島について、文化的かつ近代化の産業遺産等から世界的アートの源泉として飛躍的な注目度を浴びている点について紹介した。
一、中国三十三観音霊場めぐり(岡山県内)
宗派に関係なく、観音様を信仰の対象としてお祭りしているお寺さんをお参りするのが観音霊場めぐりである。観音さまは、観音菩薩、観世音菩薩、観自在菩薩と普通は謂われているが、救世菩薩(くぜぼさつ)、大悲大慈主(だいひだいじしゅ)、施無畏者(せむいしゃ)、蓮華手菩薩(れんげしゅぼさつ)などとも呼ばれている。生きているもの全てを救うためにいろいろの能力を持っている仏様ということのようである。
世に名高い観音めぐりは、全てのお寺さんが観音菩薩で占められている西国三十三観音霊場めぐりである。大阪・京都府及び兵庫・奈良・和歌山・滋賀・岐阜各県にわたる広範囲かつ超有名な古刹のお寺さんの三十三ヶ寺が名を連ねている。
すなわち、第一番札所…青岸渡寺、第二番札所…紀三井寺、第三番札所…粉河寺、第四 番札所…槇尾寺、第五番札所…藤井寺、第六番札所…壷阪寺、第七番札所…岡寺、第八番札所…長谷寺、第九番札所…興福寺(南円堂)、第十番札所…御室戸寺、第十一番札所…上醍醐寺(准胝堂)、第十二番札所…岩間寺、第十三番札所…石山寺、第十四番札所…三井寺、第十五番札所…今熊野観音寺、第十六番札所…清水寺、第十七番札所…六波羅蜜寺、第十八番札所…六角堂、第十九番札所…革堂、第二十番札所…善峯寺、第二十一番札所…穴太寺、第二十二番札所…總持寺、第二十三番札所…勝尾寺、第二十四番札所…中山寺、第二十五番札所…播州清水寺、第二十六番札所…一乗寺、第二十七番札所…圓教寺、第二十八番札所…成相寺、第二十九番札所…松尾寺、第三十番札所…宝厳寺、第三十一番札所…長命寺、第三十二番札所…観音正寺、第三十三番札所…華厳寺である。
ひとめぐりするためには、性根を入れてかからないと、並大抵の浮ついた気持ちでは廻りきれない。私は、過去に(亡)母と一緒に一周したことがあり、かなりの精神力と時間がなければ結願成就は難しい。幸いに満願できた。機会があれば、再度トライしてみたい。
さて、昭和五十七年三月に新たに中国地方に誕生したのが、中国三十三観音霊場で、中国五県にわたり三十三ヶ寺と特別霊場が四ヶ寺で構成されている。
岡山県内には、七ヶ寺と特別霊場一ヶ寺があり、いずれも、地方では立派なお寺さんである。ちなみに、第一番が西大寺(さいだいじ)、第二番…餘慶寺(よげいじ)、第三番…正楽寺(しょうらくじ)、第四番…木山寺(きやまじ)、第五番…法界院(ほうかいいん)、第六番…蓮台寺(れんだいじ)、第七番…円通寺(えんつうじ)、特別霊場が誕生寺(たんじょうじ)である。
私は、幸いにして岡山商工会議所の委員会の主催で、岡山県内の全部及び広島県内にある六ヶ寺を廻らせてもらった。なお、特別霊場の誕生寺については、従来からよく個人的に立ち寄っているので、お参りしたことにしたい。
また、お四国さんと云われる四国八十八ヶ所霊場には、お大師さん(空海)と同行二人の旅を、私は、すでに、八十八ヶ寺を3回転お参りしているが、中国観音霊場のお参りは、四国八十八ヶ所のお遍路と共通する点もあるが、区別されるものである。例えば、宗派で高野山真言宗に属するお寺さんが両方にあるとともに、それぞれにカウントされて名を連ね、共通点もある。ただ、四国四県に散在している四国霊場八十八ヶ寺。中国五県に散在しているのが中国観音霊場三十三ヶ寺で、所在する地域が異なる。と、ともに観音様をお祭りしているため共通項があるお寺もある。もちろん、四国霊場八十八ヶ寺には観音様とご縁の深いお寺さんもあるから、厳密には重複していて明確に区別することができない観音さまのお寺さんもある。
難しい信仰の対象である宗教の諸問題になると、私のような俗人が講釈する立場にないから深く掘り下げることはしない。
以下、思いつくまま、お寺さんの紹介と私の感想を述べながら、岡山県内にある立派なお寺さんの一端を書きとめてみたいと思います。参考にしてもらえれば幸甚です。さらに、中国三十三観音霊場めぐりをしてもらえれば益々嬉しいことです。幸甚に思います。
なお、広島県の観音霊場は、国宝を護持していたり、大本山であったり格付が上の岡山より立派な古刹のお寺さんもあった。瀬戸内海を背景に経済力のある海運の歴史が、裏付けになっているものと考えられる。
第一番札所(金陵山 観音院 西大寺)
五〇〇年続いている天下の奇祭(裸祭り)で、有名な西大寺の会陽(えいよう)が行われているお寺である。通称、観音院と謂われている。安隆上人が開山。天平勝宝三年(751年)に創建。御本尊は千手観世音菩薩。宗派は高野山真言宗別格本山。本堂、仁王門、三重ノ塔、大師堂、経蔵、客殿、鎮守堂などが配置されており歴史を感じる。また、吉井川の河畔にあるので、水運の要衝にあって高瀬舟により、物資の集散地あるいは人物往来の拠点として栄えた。かつての西大寺の繁栄がしのばれる。
過去を遡れば、西大寺市が岡山市に合併された経緯がある。吉井川を往来する高瀬舟が交通手段としての役割がなくなった現在は、西大寺地域が衰退傾向にあるため、西大寺地区の再興の試みが模索されているところである。所在地は岡山市東区西大寺中三丁目にあり、西大寺の寺名が、土地の名称になっている。
なお、裸祭りは毎年二月第三土曜の夜十時に宝木が投下され、寒い中、勇壮に揉み合う様は、形容し難い興奮をもたらす。会陽(えよう)と呼ばれ、世界の奇祭に数えられている。 節目の500年の長い伝統を達成した。
第二番札所(上寺山 餘慶寺)
古い歴史を彷彿とさせる立派なお寺さんである。世の中には余り知られていないお寺といえるが、知る人ぞ知るという古刹で存在感がある。創建は、天平勝宝元(749)年に報恩大師が開山。御本尊は千手観世音菩薩。通称、東向観音と謂われている。宗派は天台宗。東の山の峰から昇る太陽を拝むのに適しかつ吉井川の流れを見下ろすことのできる小高い山の上にある。
西に沈んでゆく夕日も美しい。本尊千手観音立像の国指定の重要文化財が、本堂(薬師堂)内にある。また、本堂も国の重要文化財である。平安時代からの長い歴史があり、天皇の勅願所として国家の安泰と五穀豊穣を祈願した。また、武家が力を持ってきてからは、赤松則宗氏が信仰。そして、宇喜多氏、池田藩主の庇護のもとひときわ栄えた。それを物語る仏像や建物の多くが現存していることからも証左できる。
本堂(観音堂)、薬師堂、三重塔、地蔵堂、鐘楼、山王社、愛宕社、開山堂などの伽藍が立地している。また、かつては、七院十三坊と謂われた。現在は六院が現存している。平安時代よりの遺存である神仏習合の形をなし、隣接して豊原北島神社がある。
観音様は、東向きで御来光をお迎えしている。本堂にある木造千手観音立像(ヒノキ材、一木割矧ぎ造)を解体修理した際、寛永二(1625)年に修理を実施していて、その際の像内の納入品に、寛永年間の五穀や護符等があり文化財としての価値も高く評価されている。秘仏とされて三十三年ごとに御開張されてきたが、頭部は室町時代の新造である。しかし、それ以外の構成部には、最も古い時代(平安時代)の部材が部分的に残っているなど貴重な作例である。寺の住所は岡山県瀬戸内市邑久町北島にあり西大寺の東方にある。
なお、岡山県立博物館で秘仏として大切に護ってこられた本尊の千手観音立像に関して<仏>胎内の世界-餘慶寺千手観音納入品-として成果が、ただ今、公開されている。その科学的解明により、学問上貴重な研究成果がもたされており、今後の成果がさらに期待されている。
第三番札所(日光山 千手院 正楽寺)
岡山県備前市蕃山(しげやま)にある。創建は天平勝宝元(749)年。報恩大師が開山。信賢上人が正安六(1304)年に中興した。御本尊は十一面観世音菩薩。宗派は高野山真言宗準別格本山である。あまり世間では名前が知られていないが、立派なお寺である。隣接地を山陽新幹線が走っている。トンネルもあって騒音に悩まされているのが現状だが、山の緑と竹林の静寂な場所のため別天地の趣きがある。
本堂、書院、庫裡、鐘楼、山門(仁王門)など重厚な寺構を整えている。特に、鎌倉時代の面影を残している仁王門にある「雲と波」の彫刻は貴重な文化的遺産で芸術的価値は高い。一見の価値はある。
備前池田藩の祈願所であった。池田家の代々の位牌が安置されているなど、江戸時代には、特別に庇護されていたことがわかる。
特筆すべきは、陽明学で有名な熊沢蕃山(くまざわばんざん)とは、深い間柄にあるお寺である。境内には熊沢蕃山の歌や銅像がある。
なお、正楽寺は、古刹であり山岳仏教の経緯もある。それぞれの時代に適合しながら栄えてきた。鎌倉時代に、現在地に伽藍が造営され隆盛を極めた。江戸時代には、ことごとく灰塵に化したが、宝永年間(1704~1710年)から約一〇〇年をかけて再建され現在の伽藍配置に至っている。
岡山ブルーラインの蕃山インターからの連絡が一般的だが、訪れる人は少ないようである。お寺の維持管理の面からすれば観光地化された方が良いかもしれない。ただ、由緒ある文化的財産があって歴史的見地からも高く評価されるお寺であるから、俗化は避けた方が良いともいえる。境内や建物内は綺麗に整備されている。
第四番札所(医王山 感神院 木山寺)
岡山県真庭市(旧真庭郡落合町)本山にある。山岳仏教の面影が随所に見られる。御本尊は、十一面観自在菩薩・薬師瑠璃光如来。創建は弘仁六(815)年。弘法大師空海が開山。宗派は高野山真言宗別格本山。現在の住職のひいおじいさん(高峰秀海)は木山寺の住職から高野山真言宗の最高の位一の第四〇五世の管長を務めた偉いお方である。
県北の真庭市においては、木山寺は古刹として存在感があるお寺。きつねを合体してお祭りしている神仏混淆の珍しい形式の古刹である。
標高四三〇mの山上にあるが、鬱蒼とした老杉などに囲まれた静寂な自然環境にある。進入路も整備されている。中国縦貫道落合インターからが近道である。進入路が整備されるまではお参りするのも一苦労であった。私はずっと前に一度お参りしたことがあった。
薬師如来を中心に鎮守神として木山牛頭天王と善覚稲荷大明神を祀っているため、本堂正面にある寺額に牛頭天王と善覚稲荷の二神が刻まれている。これは往古の神仏習合の伝統の名残を継承しているものである。
なお、当寺の牛頭天王は薬師如来が化身したお姿であり、また善覚稲荷は十一面観音の化身の姿であると謂われている。
中世には、木山宮が美作国三郷の惣社として崇拝され、応永年間(1411年)に赤松義則の厚い信仰により寺領の寄進を受けている。
戦国時代には、尼子晴久、毛利元就、宇喜多秀家などの武将から護持されている。明日の命が分からぬ戦国武将には、木山寺木山宮の存在は、心の平安を求めるための重要な存在として崇められていた。昔の人の方が、現在の我々よりも命懸けの戦いをしていたから、それだけ信仰心が深かったといえるだろう。
第五番札所(金剛山 遍照寺 法界院)
JR津山線の岡山駅の次駅は「法界院」。駅の名前にもなっているお寺。古刹である。本尊は、聖観世音菩薩。創建は、天平年間(729年頃)。報恩大師が開山した。江戸時代に伝審和尚が中興した。
宗派は、真言宗単立。なお、本尊の聖観世音菩薩は、桧の一木一体の珍しい平安初期の貴重な作であることから国の重要文化財に指定されている。法界院は、岡山市北区法界院の地名となっている。お寺の名前は知れ渡っているが、お参りする人は比較的少ないようである。
今は亡き母の言葉が、忘れられない。なぜならば、昭和二十年六月二十九日に岡山市が空襲で焼け野原になった際、国鉄の津山線は岡山駅が使えなかったので、法界院が始発になったようで、法界院駅まで歩いて行き、汽車に乗って田舎に帰ったとよく話していたものだからだ。私の記憶に懐かしい名前のお寺である。
とにかく、平安時代から現在に至るまで紆余曲折はあったが、備前岡山の人は、寺の名前をよく耳にしているお寺さんである。しかし、お寺の詳しいことは、余り知られていないのが現実であろう。私は始めてお参りしたお寺でしたから…。
岡山城主池田公が帰依された。後楽園の慈眼堂とは、御縁があるとのことだ。江戸時代は、一般庶民の参詣により、随分賑わったようである。
山門は、地方のお寺としては立派な構えの門である。備前池田藩三十一万五千石の庇護を受けたことが窺われる。ただ今は、お寺の隣接地まで住宅地となっている。半田植物園が近くにあり、住環境が良好な地域である。進入路がやや狭いのが難点である。
第六番札所(由加山 蓮台寺)
俗に、瑜伽大権現蓮台寺(ゆがだいごんげんれんだいじ)と謂われている有名なお寺である。四国の金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)との両参りがセットされて信仰が深まり栄えたお寺。今でも何人を問わず一度は、お参りしたことのあるお寺さんであろう。
御本尊は、十一面観世音菩薩・瑜伽大権現。創建は天平五(733)年。行基菩薩が開山。通称、ゆがさん。厄除総本山として有名である。住所は、倉敷市児島由加にある。標高三百mで連絡道は方面別に幾つかある。三万坪の大規模な寺領の土地をもつ。
宗派は真言宗御室派別格本山。奈良時代に行基が、瑜伽大権現として開山してから、室町初期に増咋僧上が中興した。江戸時代に、ほぼ現在の伽藍に整備された。池田継政以降、備前池田藩の祈願所となって、蓮台寺客殿が藩主の宿泊場所として使用された。人々の願いを叶えるため仏が権(か)りの姿として現(あらわ)れたのが権現さま(権現神)であると謂われている。権現さまは日本固有の仏様である。
永い歴史の中で権現堂、大師堂、観音堂、多宝塔、鐘楼堂、大日堂、妙見宮など多くの建物が蓮台寺大伽藍内に、散在している。
なお、平成十年には、祈祷と供養のために総本殿が完成し、諸仏事が集約されて行われ現在に至っている。
客殿は、岡山県の重要文化財に指定されている。池田公のお宿としての風格と尊厳が顕在化している建物である。庭園は趣きがあり趣向を凝らしている。
第七番札所(補陀洛山 円通寺)
他のお寺からみれば、時代的には比較的新しいお寺である。元禄年間(1688頃)中興。御本尊は聖観世音菩薩。徳翁良高が開山。
通称、星浦の観音と呼ばれている。
宗派は曹洞宗。他の六寺と比較して禅宗の観音霊場である点は、珍しいお寺である。玉島の街が開発された時に、円通寺も平行してお寺の形ができた。本堂は茅葺の屋根で、瓦葺ではない点は稀少な価値があり珍しいといえる。
円通寺は、良寛和尚が修業したお寺として夙に有名である。禅門の修業の道場として現在に至っている。
寺域一帯は景勝の地で円通寺公園をなしている。高台にあり玉島の街や水島灘が一望できる。眺望は良い。
寺の成り立ちについては、備中松山藩主水谷侯の帰依するところもあって、庄屋、庶民などの力によるところが大であるなど、開山の経緯は一般のお寺と比較して興味をそそるところである。
特別霊場(栃社山 誕生寺)
宗派は浄土宗のお寺さん。岡山が生んだ代表的な宗教家の一人である法然上人の誕生した寺として有名である。JRの津山線に誕生寺という駅名にもなっている。
法然は浄土宗を開祖したことで有名だが、京都には、知恩院という大きな日本一の山門を誇るお寺があり、存在感のある宗派である。むしろ京都の人には、よく知られているといえるのではないだろうか。
誕生寺は、岡山県久米郡久米南町誕生寺里方にある。立派な銀杏の木の老木がある。建久四(1194)年創建。開山は法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)である。御本尊は聖観音院菩薩。爾来八百年余りの間、法灯の絶えることなく現在に至っている。中国三十三観音霊場の岡山県内の特別霊場となっている。御影堂(本堂)は元禄八(1695)年再建され国の重要文化財に指定されている。
法然は幼少期は勢至丸といい、十四歳の時に比叡山へ修行に登った。比叡山で修業したのちに浄土宗を開祖した。
なお、境内には誕生椋、片目川、産湯の井戸など歴史を裏付けるものがある。
以上が、岡山県内にある中国三十三観音霊場めぐりの対象となって、公認されているお寺さんである。
ちなみに、中国三十三観音霊場の他県のものとしては、広島県には第八番札所…明王院、第九番札所…浄土寺、第十番札所…千光寺、第十一番札所…向上寺、第十二番札所…佛通寺、第十三番札所…三瀧寺、第十四番札所…大聖院、特別霊場…西国寺、の七ヶ寺及び特別霊場一ヶ寺となっている。
山口県には、第十五番札所…漢陽寺、第十六番札所…洞春寺、第十七番札所…龍蔵寺、第十八番札所…宗隣寺、第十九番札所…功山寺、第二十番札所…大照院、第二十一番札所…観音院、特別霊場…般若寺、の七ヶ寺、特別霊場一ヶ寺となっている。
島根県には、第二十二番札所…多陀寺、第二十三番札所…神門寺、第二十四番札所…禅定寺、第二十五番札所…鰐淵寺、第二十六番札所…一畑寺(一畑薬師)、第二十七番札所…雲樹寺、第二十八番札所…清水寺、の七ヶ寺となっている。
鳥取県には、第二十九番札所…大山寺、第三十番札所…長谷寺、第三十一番札所…三佛寺、第三十二番札所…観音院、第三十三番札所…大雲院、特別霊場…摩尼寺、の五ヶ寺、特別霊場一ヶ寺となっている。
これらの中には万人が、その名をよく知っているのはもちろん、地域を代表する著名なお寺さんも含まれている。興味の湧くところである。
なお、観音霊場を決めた基準は、観音菩薩が本尊かどうかが根本的な理由ではなく、観音さまと縁の深い寺院を札所としているようだ。それゆえ比較的大きなお寺さんが対象となっているため古刹が多くなっている。
観音さまは、現世利益をもたらしてくれる仏様として信仰を集め衆生を煩悩(むさぼる、いかる、おろか)から開放してくれて、恐怖から生きとし行けるものを救済すると云われている。要は、観音菩薩は、心で観、心で開き、苦しんでいる人、悩んでいる人を救うと、誓いをたて努める者すべての人が菩薩であるといえるようだ。古えから観音さまは、信仰の対象となっているのである。
また、西国あるいは中国三十三観音霊場めぐりの三十三寺は観世音菩薩さまが三十三身に化身して衆生を救済してくれるという
御利益にちなんでいるといわれている。俗に三十三間堂とか、三十三観音霊場とか、観音さまに三十三の数で表現される場合が多い。このことは、観音さまが、無限に身を変えて衆生を救いに来られる姿を示しているのであって、観音さまが三十三身に化身されて現れ、あらゆる者の苦悩をお救いになると説く観音経に基づいているといえるようだ。
二、岡山市は、遠い所にある田舎都市か?
過日、会合のため東京の上野公園に赴いた。皆さんから、遠路おいでいただきありがとうございますと労いの言葉をいただいた。新幹線で三時間余りで東京へゆけるし、いまや東京と岡山間はビジネスの世界では日帰り圏だ。だから、岡山から支店あるいは出張所など出先機関を引き揚げてしまう傾向が顕著になっている。けだし、携帯電話、FAX、メール等々で仕事はできるためだ。
大阪と広島のちょうど中間地点にあるため、どちらかの支店の支配下に配属して事業遂行すれば仕事はできるので、中継する事務所はいらないということです。瀬戸大橋が開通したときは、岡山が中国地区の拠点になるのではないかと淡い期待をしていた。然るに、いかんせん、夢に終わったようだ。また、岡山市が政令指定都市になったまではよかったが、それでどう変わったかとなれば、変わり映えがしないというのが現実。岡山市役所の事務量が増加したということは、確かだろうけど、知名度が飛躍的に高まったわけではない。市民は冷めているし経済効果に恩恵があったということはないに等しい。土地価格が上昇したわけでもなく下落しているのが現実だ。
東京の人は、岡山市より倉敷市の方をよく知っている。その倉敷市が、チボリ公園が跡形も無くなって更地になったため、人の往来が激減したのが原因となって、倉敷駅上のホテルは廃業して取り壊すそうであるから、チボリ公園廃業の及ぼした影響力は大きく、全てが水の泡となってしまった。“まち"は生きものであることを証明したようなものだ。
やはり、岡山市は日本全体の人口が減少する中にあっても、人口倍増させるぞという意気込みを以って、なにはどうあれ、政令指定都市になった以上は、経済力をつけることが緊急の課題であろう。
ところで、会合が上野公園の精養軒で行われたので上野界隈の散策をした。ちょうど、花見の時期で夜桜を楽しむ人たちでびっしり。場所取りも苦労するだろうなあ~と暢気なことを考えていた。
国立西洋美術館を覘いてみた。もともと旧・川崎造船所の社長、(故)松方幸次郎氏の松方コレクション(三七〇点の作品からなる)を基礎に、彼の寄贈品等を国民に観てもらうために、国が建設した唯一の国立美術館だそうだ。ロダンの彫刻が非常に多いのにびっくりした。フランス美術コレクションを中心に、超一級品がずらりとあって、観て周るのに疲れるぐらい名品が多くある。それにしても、自分の収集した美術品等を国へ寄贈する太っ腹には関心する。と、ともに収集のために投入した私財の軍資金だって、稼いで儲けたものだ。それゆえ、国へ形をかえて国民のもとに、国民の共通の財産として返還する、という考えも奇特な人の思い入れと納得できる。所詮、そういう行動は、普通人には、なかなかできるものではないが、気骨ある勇気に、あっばれと拍手を送りたい。上野公園界隈は、多くの美術関係等の大学や施設があるから、下町情緒を楽しむだけでなく、文化や学術等を楽しむところでもある。
私は、東京出張などで行ったときには、時間の余裕をみて文化や学際的な香りのするところ、特に上野公園界隈、また、新しくできた新規参入の街(東京駅周辺)などに、物見遊山を兼ねて足を運ぶようにしている。が、何分にも東京は広すぎるので、ぼちぼちというところ。
それにしても、地下鉄の乗り換えは、駅構内だけでも結構距離がある。たっぷり歩くことになる。足腰は、都会人の方が地方都市の人より強いと思う。長く歩いても距離を感じさせないのは何故か。街全体が歩いて楽しいエンターテイメント性があるからだ。刺激がある。都会は、街の楽しみと未知の世界への発見があるから、最大の刺激を受けることになる。地方都市が寂れるのは、街に活気がなく楽しみも少ないから歩くのが億劫になり長く感じられるため。すぐに乗り物を利用するようになる。それゆえ、田舎や地方都市のまちには面白さがないため人が集まらないことが要因と考えられる。それゆえ地方における地方分権は掛け声だけで実現性が乏しい。
時々は、東京・大阪・京都等へ行って刺激を受けてみましょう。ただ、私の主観的かつ素直な気持ちでは、生活の本拠はあくまで岡山が理想と思います。
三、天下の秀才も“志"が重要
津山市の「津山洋学資料館」に行った。かつては、レンガ造りの銀行の建物を跡利用していたのだが、今年3月に新築した建物に移転した。岡山が医学に対して、先駆的な役割を果たしたことを、立証し確認するための岡山経済同友会の視察である。
津山市の「城東町並保存地区(じょうとうまちなみほぞんちく)」として整備が進んでいる、旧出雲街道沿いの津山市西新町に位置している。
日本史の教科書に出てくる有名な人、あるいは出なくても、貢献した人などが津山洋学資料館の構成の対象になっている。津山が将軍家とつながりのある藩であったことも津山医学の発展には幸いしたようである。館内には、医学系の書物を中心にオランダ(和蘭)を主流とする洋学の書籍や立体模型などにより説明・解説されている。
歴史的に見れば、江戸詰の津山藩医宇田川玄随(うだがわげんずい)が津山の地に洋学を紹介したのが始まりといえる。宇田川玄真(げんしん)、椿奄(ようあん)の宇田川三代によって日本に近代科学が紹介され、かつ、もたらされたといっても過言ではなかろう。この三代の系譜から、緒方洪庵(おがたこうあん)や箕作阪甫(みつくりげんぽ)など多くの学者が輩出された。
日本史に出てくる解体新書(ターヘル・アナトミア)の杉田玄白、前野良沢、大槻玄沢の流れとも深く結びついて連携がある。このように江戸の末頃にオランダ語を翻訳し、現在使われている専門用語や一般に使用されている日本語の一部が編み出された。日本語に翻訳された医学用語は、そんなに昔のことではなく、二〇〇年程以前のことである。緒方洪庵の「適塾」は津山洋学の流れとつながっていて、洪庵の門弟に福沢諭吉などが輩出されているのであるから、いってみれば、長い糸で繋がっているといえる。
ちょうど、幕末から明治維新に至る混乱の時期であったが、当時の先駆者は日夜勉学に励み“志"を高くもって常に“志"を貫く強い精神力で前進したのである。天下の秀才といえども“志"があってこそ達成できたのである。
今の日本で欠けているチャレンジ精神が、当時の“志"の高い先駆者には有り余るほどあったのである。日本の文明開化には欠かせないものだった。必死に取り入れようとしたのだろう。今とは、世の中の政治・経済の環境が違うといえばそれまでだが、時代は変わっても、今でも当時の先駆者と同じように“志"を持って真摯に努力すればひとかどの人物になれるはずである。封建時代の昔以上に、門戸は広く開かれている。不変の大志を常に持っていることが、大切であることがわかる。
新館には、地元の学生のみならず医学系の関係者などが、視察に訪れているとのことだ。興味のある人は、是非、津山へ足を運んで下さい。きっと、何かを感じるところがあるでしょう。幕末から明治へかけての世の中の動乱期が、生み出した人間模様には興味をそそるものがある。例えば、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎や適塾を開いた緒方洪庵など“志"を貫くことに全力をあげた人達である。時代の後押しもあったが、後世に末永く名を残し業績が高く評価されている。時代環境は変わっても、基本的姿勢は同じであろうから若い人は希望を持って進んで欲しい。
なお、宇田川氏、箕作氏の4代目あたりの子孫の人は津山にはいない。江戸詰めの先祖だったため、地元岡山には縁が無いらしい。残念ですが…
四、先駆者「緒方洪庵先生」と「適塾」
私が、はじめて緒方洪庵のことを知ったのは、すでに一〇年以上前に遡る。仕事(不動産鑑定士として)で岡山市北区足守にゆき、その際、洪庵先生の生誕地に石碑や古井戸及び銅像などがあって、私の心に何か触れるものが残った。近くの古ぼけた民家で、天然痘の種痘を行ったと伝わっている。すなわち嘉永三(1850)年に足守除痘館を開いている。その後、生誕地は公園として整備され道路の改修などが行われたため、一般人が訪れ易くなった。
とにかく、岡山が生んだ医学界の先駆者であり、大阪大学医学部の生みの親である。門弟の福沢諭吉の慶応義塾大学の創立の精神や実践にも深く受け継がれているのだから、大袈裟に言えば、江戸末期から明治維新における開国日本の立役者の一人であるから、忘れてはならない人物その人が、緒方洪庵である。
緒方洪庵は、文化七(1810)年に備中国足守藩の下級藩士の子として足守に生まれ、文久3(1863)年に江戸で亡くなった。岡山の足守藩士から身を起こし医師(蘭学者)であった。特に大阪で天保九(1838)年に、私塾の適々斎塾(適塾)を開き、多くの人材を育てた教育者でもある。津山洋学の流れを汲むもので、文明開化の黎明期に、志"を高くもって活躍された第一人者である。特に、嘉永二(1849)年に大阪の古手町に除痘館を開き天然痘の予防にあたったことは有名である。
文久二(1862)年に幕府の要請により奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出士したが、文久三(1863)年に五四歳(数え年)で死亡し、波乱な人生を締めくくった。が、その業績は顕著なものがある。現在でも学問的系譜は続いているのである。
適塾は、天保九(1838)年、大阪の瓦町に、私塾の蘭学塾として開かれ、明治元(1868)年に閉鎖された。これにより、三〇年間の歴史を閉じた。現在、大阪大学が建物や資料を管理している。大阪の北浜三丁目(地下鉄、淀屋橋の東方)に町屋の佇まいで残っているのが、国の重要文化財の指定を受けている適塾の当時のままの建物が現在の有姿である。
適塾については、大阪の人は皆さん知っているが、岡山の人は、ほとんどの人が適塾そのものについて知らない。このことは、岡山の人が郷土の先輩達に対して、ほとんど興味を持たないことを、如実に証明しているようなものである。私は、先輩の業績を評価し、後世の人が誇らしく大切に尊敬の念を持つべきだと、考えるのだが…。
過日、鹿児島に行ったときに、定期観光バスのバスガイドの若い女性が、西郷隆盛先生とか、大久保利通先生とか、滔々としゃべり紹介しながら、自分たちの先輩に対して、非常な尊敬と敬意を持って誇りにしていることに感銘を受けたことがあった。
岡山のバスガイドさんが、どのように紹介しているのか詳しくは知らないが、例えば、犬養毅総理大臣というような表現はするだろうが、岡山の生んだ偉大な政治家、犬養毅先生というような表現はしていないのではないかと思う。こういう対応の差に、教育県を自負してきた岡山県人気質の皮肉な一面をみることができる。温故知新の気持ちに欠けるように思われて残念である。
私には、鹿児島の県民性の方が立派で優れていると映るのですがいかがでしょうか…。古いヤツだとお思いでしょうが、古い者ほど新しいものを欲しがるものですよ~。一千年の都が置かれていた京都を見れば、新しいものを取り入れ常に時代の先端が芽生えているではありませんか。
「津山洋学資料館」を訪れた際、津山洋学の流れを緒方洪庵が継承し、さらに、門弟の福沢諭吉が受け継ぐという一条の長い系譜を見たとき、緒方洪庵という大人物かつ大先輩を大切にすべきと思った。再評価の必要が大いにあり。なお、私は「おかやま適塾」を開催していたが(現在、休講中)適塾の名前にこだわり大阪大学に名称使用の承諾をもらったうえで郷土の先輩の適塾を名前の冠に使用させてもらった経緯があります。参考までに。
五、岡山県内の島めぐり
随分、前のことになるが、笠岡市の職員とともに、笠岡諸島の島を隅々まで、くまなく調査にまわったことがある。空屋の庭に白い大きな清楚な百合の花が一輪咲いていた。実に美しく、未だに、その時の光景が心に染みついて深い感動として残り、昨日のごとく思い出される。
岡山県は、南部が瀬戸内海の海岸に接している。美しい島並みや朝日・夕日の美しさが何ともいえない景色をかもし出している。箱庭の趣で、すばらしい。
さすがに、瀬戸内海国立公園だけはある。自然の美の粋が集まっている。特に、香川県との県境が入り込んでいるため、場所によっては、すぐそこの手の届く島が、香川県に属していたりするが、岡山県の島としてまとまっているのが、東は日生諸島であり、西は笠岡諸島である。その問は、香川県に属する島が多い。ただ、岡山市に属し近距離の「犬島」は昨今、脚光を浴びて訪れる人も多く、魅力溢れる島である。そこで、以下、具体的にみてゆくことにしたい。
①まず、「日生諸島」は備前市の日生(ひなせ)沖に点在する諸島で、旧日生町に存在していた。日生といえば魚である。味はよく、飲食店も日生には多い。お客さんは、岡山からの人より関西からのお客さんの方が多数を占めている。また、各方面への船の便もある拠点港がある。
「日生諸島」の代表的な島は以下の通り。
・鹿久居島(かくいじま)
野生の鹿が生息して、藩制時代には鹿狩りが行われていた。古代体験のできる「まほろば」の郷がある。本土との問に橋を架ける計画が進行中である。・鶴島(つるしま)切支丹殉教の島として知られている。
・頭島(かしらじま)
人口が、最も日生諸島の中では多く、生活の拠点施設もあり、生活環境が整っている島。魚釣り、海水浴、みかん狩り、島巡りなど、観光客が年 中賑わう。
・鴻島(こうじま)
古墳や土器が出土している。歴史のある島。のんびり島でくつろげる。宿泊施設や別荘も多くある。みかん狩りも楽しめる。
・大多府島(おおたぶじま)
北岸は天然の良港。南岸は奇岩があり大小の洞窟がある。大多府港は元禄十一年(1698年)開港の古い歴史のある港をもつ。岡山藩の池田綱政の命により津田永忠が構築した、元禄年間の当時の防波堤も残っている。自然遊歩道も整備されウォーキングには最適。江戸時代には諸国の廻船、西国の参勤交代の御用船に、飲料水を供給し賑わい栄えた寄港地の島である。
・長島(ながしま)
日本初の国立ハンセン病療養所があることでも知られている。
以上のように、古代より人が住み着き好漁場であり島の風景に優れ、ゆっくり流れる時間のなかで自然を楽しみリフレッシュできる。別荘や宿泊施設もあるため、観光客の受け入れば整備されているが、離島のため船便によるところにハンディーがある。過疎化が進んでいる。高齢者の比率が高くなっている。
足の便が解決されれば、距離的には近い所が多いから、地方分権を先取りできるので脚光を浴びるであろう。このことは、後述する笠岡諸島や犬島でもいえることだ。島は良さと不便さの調和が問題を複雑にしている。それらの諸問題が、ネックとなり過疎化が深刻である。
②次に、笠岡市は離島振興に力を入れており、古い歴史のある島が多い。離島を抜きには笠岡市は成り立たない。「笠岡諸島」の主な島は以下の通り。
・高島(たかしま)
笠岡諸島の最北端にあり、ペンションが立ちレジャー客も多い。一万年以上も前から人が住んで いた遺跡の島。
・白石島(しらいしじま)
平安時代から、歴史に登場する島。西国大名が舟泊りをした。瀬戸内海国立公園の代表格で自然が美しい観光の島。ハイキングコースやキャンプ、海水浴場など四季を通じて楽しめる。白石踊が有名で国指定重要無形文化財となっている。弘法大師とつながりのある開龍寺。地質学上重要なため天然記念物になっている鎧岩などがある。
・北木島(きたきじま)
花崗岩の島。北木石(北木御影石)として有名で、石は大阪城築城に利用された。キャンプ場や海水浴場がある。流し雛の風習がある。
・真鍋島(まなべじま)
花の島。全島がのどかな漁村風景をしていて、ふるさと村に指定されている。秋から冬にかけて冬菊、キンセンカ、スイセン、マーガレットなど、年間を通じて霜の下りない温暖な気候を活用した花作りで、島全体を埋め尽くす。平家の真鍋氏が本拠にした島で、歴史のある街並みや水軍の真鍋城跡が残っている。走り神輿は、勇壮に島内を走り早さを競う様は壮観。
・飛島(ひしま)
大飛島(おおびしま)と小飛島(こびしま)からなる。奈良時代から平安時代にかけての祭祀遺跡(大飛島にある南遺跡)がある。干潮時には、海中の架け橋として砂洲が両島を結んでいたが、潮流の影響か、現在はほとんど見ることができないようだ。
・六島(むしま)
県下最南端に位置し灯台のある島。海苔(ノリ)や河豚(フグ)の養殖が行われ、自生する水仙が可憐な花を咲かせる。
• 最後に、昨今、特に世間の注目の的になっている「犬島」について。
犬島(いぬじま)は岡山市東区にあり、瀬戸内海国立公園内に含まれている。宝伝(ほうでん)港(朝日漁港)から定期船の便がある。2.5km、約一〇分間の距離。平安時代からの歴史がある。約五十人余が住んでいる島。南東方向には小豆島(しょうどしま)があり犬島諸島の中では最大の島である。花崗岩(犬島みかげ)の産出で有名。大阪城築城にも切り出された。特筆すべきは、明治42(1909)年から大正8(1919)年まで島の南東部で銅の精錬が行われ、その遺構としてレンガ積みの煙突等が残り、独特の風景をかもし出して犬島のシンボルとなってきた。
約一〇年前からベネッセコーポーレーションが主催する直島福武美術館財団が精錬所付近を使ったアートワークの設置を計画し、平成二〇(2008)年に「犬島アートプロジェクト精錬所」が開館した。訪れる人も多くなり、瀬戸内海の美を借景にして、香川県の直島と犬島がともに、日本よりも世界の芸術家から注目を集めている芸術の島になりつつある。
さらに、二〇一〇年の今年の七月十九日から十月末日にかけて、香川県と岡山県の七ヶ所の島々を会場に開催されるアートの祭典「瀬戸内国際芸術祭2010」副題「アートと海を巡る一〇〇日間の冒険」の開催地の一つにもなっている。地域の文化発信基地としての活動が、期待されている。
島の南には、犬島海水浴場とキャンプ場があり。西には、犬島自然の家もあって、夏場は多くの海水浴客などで賑わっている。以上のような次第で、岡山県の離島について、それぞれの特色や成り立ちを、書きとめてきましたが、その他、岡山県には、玉野市石島地域(石島)と倉敷市児島諸島地域(松島、六口島、釜島)がある。
以上